(前書きより続く)今の絵、絵本、芸術に疑問を感じている人と本当の大人とは何かを知りたい方は、ぜひお読み下さい。

絵とWebア−トとシュ-ルレアリスムについて/このペ−ジは当分だれにも気がつかないでいてほしい。こういう隠れ場所はじつに心地よいものだ、ここに書きとめたことがらは確実に在るはずなのに、存在しない。こういう状況こそが、ぼくの求めていた世界と想える。
Webア−トとシュ-ルレアリスムについては、実際の生活であまりというより、ほとんど人と話すことはない。Webア−トなるものが認知されているのか。絵の展示、見せ方は作品には重要な事柄のはず。画家が作品を作って、他の人に観てもらう。
観てもらえば、いいのか、というとそうはいかない。
作品を誰にでも、観てもらいたい。と
作者はおもっているとはかぎらないのだ。
観てほしい人にしか、観てもらいたくない作品だってあるのである。観る人間が作品を選んでみるにではなく、作品が観る者を選ぶののが本当なのだ。といういう考え方がある、ということを知るひとは少ないであろう。
観てもらいたくもない者が、その作品を評するなど、作者と作品にとっては耐えられないことである。そこで、作者は作品の展示を気にし、計算することになる。作者が存命の間は、コントロ−ル出来ても、亡くなった後は作品は、ハイエナのような画商や美術評論家などに、作者、作品の意図とはまったく違った方向に連れて行かれてしまう。
その作品のことを、その作者以上に考えている者がいるはずはない。それほど作品は、作家にとっては別の人格をももった人間と同じ存在なのである。そのことも知らずハイエナのような画商や美術評論家は値をつけて作品の価値判断の基準にしようとする。
人間に値をつけるだろうか?亡くなった作家の作品をいないを幸い自分のことのように、いじくり回し、利用している亡者たち。
作者自身で、これら亡者から作品を守ろうとした、作家と作品をご存じだろうか?知るどころか、考えたこともない人がほとんどではあるまいか。
それには まず 作品とはなにか?をかんがえねばならない。

なぜ人は絵をかくのか?原始時代に洞窟に壁画を描いた人たち、
戦争のまっただ中、絵なんか描く余裕がないはずなのに、戦争の
絵を残している人たち、今も人知れずもくもくと何処かで絵を描いている人たち、羨ましい。これが、本当の絵なんだとおもう。なにもあなたやわたしたちに観てもらおうという訳ではなく、描かずにいられなくて描くこれが、理想の絵なのだ。
そんなはずはない、絵描きは人に観てもらうために、描くのだ、
人に観てもらえないのでは意味がない、人に認められてこそ絵は
価値がある。なんていう輩もいる。そういう連中が絵に高価な値をつけ絵を商品にしてしまう。
絵は人間の作った作品である。そう 作品なのだ。そうなると作品とは何だ!作品に値がつけば、それは商品だ。画家は商品を作ろう
としてるわけではない。そこが、一般の人と画家の根本的な違いなのだ、なかには売りやすい商品的な作品を描いている絵描きはいる
彼らは絵描きなのだ。芸術家ではない、描いているのは作品ではなく商品だからだ。その辺りが、作品と商品がごっちゃになっていて、普通のひとには見分けられない。それをいいことに高い値をつけて悦にいってる大家がいっぱいいる。売れているということが判断を狂わせる。そして、だれも猫の首に鈴を付けることが出来ず、世の中は、なにが本当であるか、にも気づかず、考えず、事は起こらず、平々と過ぎていくのだ。
賞なるものがある、これもみなありがたがって権威となる。
賞はどこからやってくるのか。おかしいことに誰かが決めているのだ。ここがおかしい、決める人間をだれが決めたのか?
誰も決めていいなんていってないのに。いっているとすると、その決める人間を、また決める人間が存在するのだ。だいたい、その人間が賞のスポンサ−で、なんだか分からないまま、最後に登場して
受賞者に賞を手渡す。それがうれしいのか?
受賞というのは、賞を受けるのであるから、受けるのは上から下でなくてはならない。みてると、下から上に与えてるようにみえる。
下からでも何でも何かもらえれば、それがうれしいのか?
真の作品はそういった俗物から、遠く離れたところに在るべきものである。売れるのは売れる程度、賞を取れる程度、受け入れられる
程度、認められる程度、多くの人が賞賛すればするほど、その作品
は、多くの人が賞賛する程度の作品なのだ。
真の作品はもっと次元のちがう所に在るものなのだ、
賞や経歴や評判でしか、作品の判断が出来ない人に、ここの話は酷であろう。
続く



この写真は・・・・
Mr.st&Ms.d
瀧口修造は何故、晩年、身を隠したか?
そのことを論じている書に出遇わない。ぼくはこれこそが瀧口修造の
いいたかったことであるはずなのです。
氏はいくつも、その伏線をひていらっしゃった。
その伏線に、その人が気づこうが、気づくまいが、である。
公にというのは怪しい、見えないところにこそ真理が潜んでいる。
公からは、なにも真実が伝わらない。そのことを一番わかっていらした。
公でないところで、たくさん情報を流していらした。
そこに意味がある。ということを、知るべきである。


シュ-ルレアリスムぼくにとっては とても重要なことなのに 他のひとにとっては とるにたりないこと。そういう事はまわりに たくさんあることでしょう、ぼくの考えるシュ-ルレアリスムブルトンのいうそれともちがうようです。今書いているこの場所はまず訪れる人はほとんどいないでしょう。

ですから、安心してぼくは ぼくの考えるシュ-ルレアリスムをここに記すことができます。著名な美術研究家はすぐに、ブルトンの文章を引用してはなします。引用されると無知なぼくは圧倒されそうになります。あたかも、もうそれが正しいといわんばかりに雄弁にふるまう有識者。
でも、ぼくは説得されることはありませんでした。
彼のいうシュ-ルレアリスムに関することは正しいのかもしれませんが、なにせ使われる言葉はぼくの頭には難しすぎます。
これから、ここでぼくが述べようとしてる事は、本当はシュ-ルレアリスムといってはいけないのだと思います。何か新しい言葉を作ればいいのかもしれません。しかし、それでは、シュ-ルレアリスムと対峙するだけで、別の考え方とかたづけられてしまいます。そう簡単にかたづけられたくないのです。
シュ-ルレアリスムは、ただの思想、哲学でなく体現実行だからです。体現実行の後、思想、哲学が付いてくるものだからです。思想、哲学という論理だけでは生温いのです。
ぼくがこの考え方に至ったのは、瀧口修造に出遇い、そこでデュシャンを知りフィラデルフィアのデユシャンの遺作に出会ったことに始まります。その後、興味があって遺作についての著名な美術研究家の方たちの評論を、数多く読みましたがすべて思想、哲学的にとらえて論じ、肝心の体現実行がないのです。
体現実行は眼に見えることのようにおもわれるかもしれませんが
まったく逆で、感性なのです。論じれば論じるほど離れていってしまう感性なのです。はっきり言ってしまえば、芸術は感性だけのしろものです。感性のみがシュ-ルレアリスムを説明しきれるものです。なぜなら、そこには真摯と無という知識では出遇う事の出来ない想像力と粋が必要だからです。
ある出遇いは、自分から求めていなくては絶対に出遇わないものです。求めていなくては、出遇っても気が付かないからです。
ある出遇いは出遇ったからといって、物理的には、なんの変化もなく、なんの利益ももたらさないでしょう。出遇いというのはそんなものです。その本人にしか意味をもたないのないことが多いです。
ぼくのシュ-ルレアリスムの出遇いもそうです。自分の求めている世界はシュ-ルレアリスムにあったと思った。でも、その後よくみていくと、ちょっと違うようだ。どう違うのか、それを、ここで書いてみたいのです。たしかにぼくは瀧口修造という人に出遇った。しかし。氏は一言もそのことを語ったりはしなかった。瀧口修造という人は黙として、ただ、体現実行していたのです。大胆に、隠れて、見えない場所で、堂々と
控えめに、この控えめに誰もが誤魔化されてしまう。それが計算されたゲ−ムだということに。結局はだれも気が付かなかったのです。瀧口修造という人は、伏線をいっぱい引いていたのに、例えば、デユシャンのロ−ズセラビイという看板。これは氏を訪れた人なら一度は必ず
話を伺ったはずです。
続く

This is my treasure.Why?この写真の説明をぼくは
ここで、しているだけなのです。でもどのように話せ
ば誰かに理解してもらえるのか、Mr.stはそんな無駄
なことはよしなさいっておっしゃるだろうなあ・・・
そう、説明することでなく、感じることだからです。
Mr.st
瀧口修造情報(詳しく知りたい方はこちらから)

瀧口修造のおとぎ話

瀧口修造という人が何者であるか?もう亡くなって20年も経ってしまいました。芸術を志す人にとって、いま、瀧口修造に変わる人はいるか?
残念ながらいません。指標となる人、何故今、いないのか?当たり前の、普通の常識の賢く優しく、実は厳しく、公平にそして不公平を見極め、属さずとらわれず、公に隠れ、厳しく律し、判断は感性で、大人であり子供であり粋である。そんな大人が今いない不幸、出遇えない不幸、気が付かない不幸。作品の不幸。作品がいま、陳腐で幼稚になってしまったのは、
判断を下す大人がいないからで、大人の陳腐で幼稚な様は指標がないという、指標を不自由とみなす、風潮が乱雑な世、芸術となっているのです。

現在のア−トについて
現在の日本の美術は、美の意識はおかしい、だれもそのことを認識していないのだろうか?どれだけの人がわかっているのだろうか?
メディアの問題がが大である。タレントのどうでもいいような絵を話題にする。作品の価格を話題にする。話題になるものが価値がある、と思っている。自分では、作品の本当の価値が分からない。
当然、一般の人に分かるわくがない。
それは、ブランド物を偽者が持ち、本物のブランドが偽者に駆逐され価値がなくなっているのに等しい。
本当の作品が分からない人々が、今、権力のある地位についている。正しい、情報がでるわけがない。どんな情報でも出た者勝ちである。美術の審査もそうである。審査員は権力をもっている、その権力者が章を決定するのである。最近の、賞をみていると、ひどいものだ。なにも知らず、分からず、賞を与えているのが一目である。
ここでも偽者の審査員と偽者の作品、日本は偽物でなりたっていていつしか、にせものが主流になっている。
今、ぼくは絵本を作っているが、この世界もまたひどい、美術がないそれこそ、子供だましの絵がまかり通っている。驚いたことに、それが売れ、売れるからいいものという、そしてそれをだれも疑わない。もっと驚くことは、その売れたお金で自分の美術館を建ててしまうことだ。絵を純粋に追求している者からみれば、信じられない出来事である。それを許す自分、編集、読者、メディアそこには媚びと、打算と無知が渦巻いている。



Webア−トについて
美術作品ば、例えば、ダビンチのモナリザは美術書を開けば、いつどこでも観ることができます。美術館にいけば原画を複数の人々が同時に観ることができます。
マルセル・デユシャンの遺作はphiladelphia Museumにいっても、ただ一人しか作品を観ることが出来ません。
この、2種類の作品の発表のありかたは、作品の展示のあり方を象徴し対象的です。絵の描き方も、ダビンチは自分の手を使い、デユシャンは自分は作品に触れずに亡くなってから作品を作るという芸当をやってみせました。どちらも、生前に人前にその作品をさらけだしはしませんでした。
それでは、われわれア−チストは、今後、いかなる方法で作品を作り展示すればいいのでしょうか?これに勝る展示方法はあるのでしょうか?原画作品の存在しない、それでいて世界中で同時に観ることのできる作品。
これが今、私が思い付く作品展示のありかたの究極です。
でも、それが今、インタ−ネットのデジタル作品なら実現出きるかもしれません。ダビンチもデユシャンも絶対にできっこなかったWeb上にしか存在しない作品。生きているときも、亡くなってからも、変わらずに在るのに見えない、見えないのに見ようとすれば、何時、何処でも、誰でも観ることが出きる。そのような展示の仕方。これからの個展はWeb上で展開されることになるでしょう。個展の作品は原画の存在しないデジタル画が、当たり前になり、絵の欲しいひとは自由にプリントして飾ることが出きる
というように、もはや原画は意味をなさない。観られるのは、美術館でも美術書でもないパソコンで観るWeb上だけという。
作品の永久性は、前者に勝る筈ですし。なぜなら破壊されるべき作品が、存在しないからです。存在は不安定なものです。Webア−トの作品は上記2作品とも対象的です。そうなったとき、その次に現れる作品。それは、きっと、複写を許さない素朴派絵。

ここで兎はあなたが来るのをまっていました。ここが終点のはずですが、でもまだ終わりではないのです。まだ隙間があります。
この隙間があるうちは、隙間を埋め尽くすまでは決して終わらないでしょう。またもう一度訪れてくれることを望みます。
その時は、きっとこの場所にくるのはもっと困難となっていることでしょう、でもあなたならきっと、来てくれる。



上の兎にここから会いに行ってください?NY

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