森羅万象

あらゆるものに

心があるとすれば

わたしたちは

心を売って生きている

心を食べて生きている

心を汚して生きている

心を棄てて生きている

心を買って生きている

心の外で生きている

心の内で生きている

心が無くても生きているい

#え絵本や童話の世界では
子供達は動物でも植物でもお月さんとでも
自然のもの なにとでも平気でお話をします。

ですから
子供達にとっては
動物でも植物でも自然界にあるものは何でも
友達であり仲間なのです。

しかし
大人になるにつれ人は絵本や童話を閉じて
現実という形だけの世界へ旅立ちます。

そして、もう二度と戻ってはこないのです。
----なぜ戻れないのか分かります
想像力という人にとって一番大切なものを知識という
形ある物にたたき潰されてしまうからです。

そのことにさえ気がつかない
それほど想像力は叩きのめされているのです

だれもいないところで

空と地べたしか見えないところで

それをもみないで 過ごす機会を

想像できるだろうか?


想像力は弱い人間の生き残るためのものなのに

人間は頭がいいおかげで

いろいろなことを知っている

多くの知識は人間を傲慢にした。

頭の良い人間の最大の欠点は

賢くないことだ!

自分と一緒に走る者がいたらその方角は怪しい

それぞれが違う方角に走るから出遇うのだ

もっと早く気が付けばよかった

まさかこんなことに

まあまあ、なにもそこまで

人間なんだから間違いもある だって?

どうして

人間だからこそと考えないのか?

わたしたちは
どんな山奥の誰も来ない
誰も観ていない
誰も気にとめてもくれない場所でも
一生だれの眼にもふれることがなくても
綺麗に花として静かに咲いていられるのに
人間は目立つところで
うるさくて汚い

これも人間なんだから仕方ない?
人間てなんて勝手なんだ?

人間から理念をはずしたら

動物以下である

思考力があるだけたちが悪い

理念なき思考は退化の思考である。

何故、他を殺してはいけないのか?

人間はこんなことの説明を求める

質問を動物、植物から人間に求めたことはあるか?

何故、われわれがこのように質問を求めないのか?

動物、鉱物、植物は悟っているからである。

人間は未だに悟りをひらこうと

修行などしている者もいる

修行をしなくては悟れない程度が人間なのだ

見えてるものがそのまま見えた通りであった試しはない

---
--瀧口修造に捧ぐ・・・(クリック)


美術に関する意向

美術作品についていえば、
例えば、ダビンチのモナリザは美術書を開けば、
いつどこでも観ることがでる。
美術館にいけば原画を複数の人々が同時に観ることができる。
マルセル・デユシャンの遺作はFhiladelphia Museumにいっても、
ただ一人しか作品を観ることが出来ない。
この、2種類の作品の発表のありかたは、
作品の展示のあり方を象徴してる。
絵の描きかたも、方や自分の手を使い、
方や自分は作品に触れずに亡くなってから作品を作るという
芸当までやってのけた。
どちらも、生前に人前に作品をさらけだしはしなかった。
それでは、ア−チストは、今後、
いかなる方法で作品を作り展示すればいいのか?
これに勝る展示方法はあるのか?
原画作品の存在しない、
それでいて世界中で同時に観ることのできる作品。
これが今、思い付く作品展示の究極なありかたでである。
しかし、それが今、インタ−ネットのデジタル作品なら
実現出きる。
ダビンチもデユシャンも絶対にできっこない
Web上にしか存在しない作品。
観られるのは、美術館でも美術書でもない
パソコンで観るWeb上だけである。
永久性は、前者に勝る。
なぜなら破壊されるべき作品が、
観ることはできても 存在しないからだ。

存在は不安定である。
このことに気づいてる美術家はいるであろうか?

安定です。


存在する絵画は存在し続けえない
それは絵画に止まらない