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Marcel Duchamp 絵画としての作品または芸術作品でもいいのですが |
マルセル・デュシャン(1887年 生まれ) 『階段を降りる裸体』1912年 ・・・ヨ 「網膜的絵画」を捨て去る。 ・・・ヨ 『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』。 俗に「大ガラス」と呼ばれるその作品は、 未完のままデュシャンの代表作となった 「グリーン・ボックス」をあわせてひとつの作賃ともいえる ・・・ヨ その後、アンデパンダン展にR.MUTTと 偽名でサインした便器『泉』を出品。 レディメイドのさきがけ ・・・ヨ |
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| 先人があらゆる種類の絵画を発表しています。 それらをかき分け自分が入り込む余地があるのか 。 そこで 考えます。 簡単にダビンチのモナリザを見て これ以上の絵が描けるのか?と デュシャンならどうしたか? と考えたときに「網膜的絵画」を否定する発想は 必然といえます。 しかし、否定はそのまた否定も含みます。 まず、絵では敵わないとみせかける。 網膜的な絵意外の絵を仕掛ける。 とデュシャンは考えたのです。 その後の彼の絵画がダビンチのモナリザを 避けることから始まってくのです。 モナリザに髭をつけ、「L.H.O.O.Q.」 としたのは、尻は熱いよりも見てろよでしょう。 LHOOQの文字に心を奪われていると読み間違います。 モナリザはデュシャンにとってはジエラシーなのです。 |
・ ・ モナリザ・フラッシュ展 |
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| モナリザはデュシャンに覚悟をきめさせました? モナリザと同等またはそれ以上の作品を作ろうと・・ 人の出来ない方法で、ダビンチも思いもつかない方法 デュシャンは着々と実行しました。 実行していることすら覚らせないようにです。 想像できますか? |
ダビンチの名作『モナリザ』の絵葉書に 「L.H.O.O.Q.」と作品名をつけて出品 「L.H.O.O.Q.」はフランス語で早く読むと 「彼女の尻は熱い」(淫乱)という意味になり 英語 では「見よ」とも読める ・・・ヨ |
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| 当然モナリザの分析をしました。 手が大きいとか目が斜視であるとか背景の視点が違うとか モデルが誰かとかのそんな網膜的なことは他にまかせ ひとつの絵画作品として考察していきます。 モナリザは 01)ダビンチが最後まで自分の手元においていた 02)死ぬまで絵に加筆していた。 03)絵は当然持ち運べる大きさです。 04)現在では その絵は多くの人がみることが出来る 05)それも 同時にです。 06)平面作品の拘り 07)黒い衣装を纏った女性の上半身である 08)微笑みもふくめて顔が印象的中心的 09)背景は遠景である 10)生前に作者が描いた これらはあたりまえのことのようですが 作品を作る者からみれば重要なことなのです。 いままでのデュシャンに関する文献を読んでも この視点が欠けています。 デュシャンに限らず、美術評論家の方が論じている |
![]() 「遺作」と呼ばれている作品 『(1)落ちる水 (2)照明用ガス、が与えられたとせよ』 古い木の扉に穴が開いており、そこから覗くと |
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| 美術に関する論文はみんな網膜的です。 想像する 創造する者の気持に入れない。 想像者の心を想像できない。 創造の発想の源がが理解できない。 美術、芸術に関してデュシャンの時代と現代とでは 見方、考え方が違います。 違って当然なのですが、それが困るのです。 不変の基準がないと、判断しずらい、 その時代認められなかったものが 時代が変わると、認められたり。 それは素人、一般の人がそうであるのは仕方がありません。 しかし、プロが、専門の美術関係者までも、リアルタイムでは 的はずれな事を発表、発言している。 亡くなってから評価する人たちの無責任さよ。 そのことはデュシャンにとっては、計算内であった訳です。 謎々ゲームのような作品の作り方は、 それらの人を煙に巻き、対象とする人にのみ投げかける 謎々だったのです。 |
右奥には光の効果によって 実際水が流れているかに見える滝があり、 前景に左手でランプを掲げた少女の裸体が 性器もあらわに横たわってい るのが見える・ デュシャンは晩年”沈黙”を続け何も制作をしてないかの 振る舞いをし、実は 20年をかけてこの「遺作」を制作していた。 |
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| ですから、いろいろな人が謎解きをしてみても それを解くのは至難のはずです。 対象となる人には きっと簡単に解ける謎のはずです。 これが芸術家の感性、センスなのです。 作品と真摯に対峙する作家でなくては 絶対に解りっこない感性そのものなのです。 |